(2)企業の社会的責任――行動規範の論理体系

今日、企業の社会的責任問題は、七0年代を第一フェーズと位置付けるなら第二フェーズの段階を迎えているといえよう。ポスト工業化社会推進の挺子である情報技術に支えられた九0年代のグローパリゼーションの進展に伴って、企業が抱える「社会的公正と効率のバランスしの問題は、一地域や一国内のものではなくなってきている。それにつれて人権問題や南北聞の不公平の問題、国境を超えて持続可能な経済社会を実現することなど、社会的公正の領域も複雑多岐にわたっている。しかし、七0年代の企業の社会的責任の論議は、社会的責任の本質的な中身とその行動規範のあり方に対する研究を促進させ、そこから得られた洞察・知見が今日でも有効な、いわば概念的な考え方の枠組みと呼ぶことのできるものを我々に提示している。
ここに紹介するのはそのような優れた洞察の一つで、野田一夫、菅家茂が七0年代我が国に噴出した企業の社会的責任問題を実証的かつ論理的に分析してまとめた「企業と社会」という論文の幾つかの知見である(注10)。さらにその知見の大枠を尊重しながら、七0年代の社会的責任論から九0年代における企業の社会貢献の開花・成長へとつながる関連の糸を捜し出す。最後に、企業の社会的責任の中身を企業行動の規範分析を通じてあぶり出し、社会的責任と社会貢献の関係を今一度明らかにしたい。野田、菅家両氏は一九七三年、東京およびその近郊の市民二OOO名余を対象にアンケート調査(注11)を行い、企業の役割、企業の社会的貢献に対する認識や理解、企業活動の欠陥を是正するための方策などを分析したが、この中で、(i)「企業活動全般についての認識と評価」は当時の市民が企業に対して抱いていたアンビパレントな態度が伺えて大変興味深いものがある。また(ii)「企業を律する手段」についても、関連領域全般を余すところなく捉えた上で切り口となる論点を適切に整理しており、その示唆するところは今日においても大きな意義がある、と思われる。以下それぞれの内容を見ることにする。

 

市民による「企業活動全般についての認識と評価」について
市民の企業活動全般に関する態度・認識を総括すると次のようにまとめることができる(詳しくは次頁図2、「『企業』という言葉から市民が受けた印象」参照)。
<1>企業を経済成長の原動力として評価するが、その結果公害問題などの環境破壊をもたらした。言い換えれば、豊かな生活を実現させたが、同時に新たな貧困を発生させている(新たな貧困の中には、都市での孤立した人間生活などが含まれる)。また伝統的な社会基盤(農林水産業)を衰退させている。
<2>新製品、有用な製品を開発して利便性を提供してきたことは事実だが、不必要な欲望を開発し、価格を安定させるどころか、物価上昇を引き起こしている。
<3>雇用機会を増大させ、一部では人間の能力開発も進んだが、管理化された社会を形成し、生きがいの挫折などの人間的な問題を生じさせている。
<4>大企業は国際的な拡大などを実現しつつあるが、寡占化を進め、下請けを支配している。
<5>政治との癒着が自に余る。
こうした認識が示す状況の少なくない部分は工業化社会のもたらした光と影として今日も引き継がれており、中には状況がさらに深刻化したり、あるいは問題解決の摸索が始まったりしているものもある。一方、今日我々はポスト工業化社会への移行の途上にあり、この新しい社会の諸特徴は工業化社会のそれとは質的に大いに異なるインパクトを我々に与えている。今日の企業の社会貢献を考えるためには、ポスト工業化の推進エレメントが社会に与えるインパクト、その中で社会的公正と効率の関係はどのように形成されつつあるのかについて考察することが必要になるが、そのテーマについては次章で検討することにしたい。

 

企業活動を律する手段について
企業活動を律する手段は次の四つ、即ち、<1>法律による規制、<2>企業に必要とされるモラル、会との関係を律するルール、<3>企業内社会でのルール、に分けられる。

<1>法律による規制
市民の法規制に対する考え方は、大別して二つに分けられる。一つは、法規制が強化されることは可能な限り避けたいというものであり、もう一方は、必要に応じて法規制を強化すべきである、というものである。前者は「競争の原理に立脚し、これに反するものは規制するという基本姿勢を貫くべきであって、競争を制限するような規制は原則として好ましくない」という意見に代表される。後者は「もっときびしくてよい。しかし、すべての企業に公平、平等にあるべきだ。そして尻抜けやざる法でなく、びしびし実効を期すべきである」と強硬である。私見を述べれば、二つの考え方を即座に一致させることは難しく、具体的な法律(刑法、間法、独禁法、公害関連法など)に即してまたは企業活動の事例(公害の発生、欠陥商品の販売、競争ルール違反、地域社会の軽視等)に即して現実的に合致点を探すべきだろう。相対立する考え方が並存しているというのがこの問題の真実の姿であり、この関係はこれからも変わることはないと思われる。
<2>企業に必要とされるモラル
企業に必要とされるモラルは、抽象的なものから具体的なものまで、大別して三つにまとめられる。
・抽象的なもの……順法精神、商業道徳、国際的モラル
・やや具体的なもの……公共福祉の尊重、企業を取り巻く利害関係者に対する影響を配慮、関係者(企業、株主、従業員、消費者そして社会)繁栄の理念、企業内福祉
・具体的なもの……企業の行動指針の公表、自己監査のための企業活動諸表の作成、法規違反をした場合の経営者の退陣
一方、モラルへの期待を疑問視する次のような意見もある。「経営を維持するためには、順法、ヒューマニズムも捨でなければならないのが現在の社会なのである」、「そんな上等な精神は存在しない。利潤追求の本質はそんな人間的なものでない」、「企業を締め付ける面があってもよい」等。

我々は、モラルは常に有効な規律・規範とはいえないが、社会環境が後押しするときなどには効果的に機能することを知っている。実例を挙げれば、九0年代企業の社会貢献が急速に充実・発展したのは、社会環境・人々の意識の変化を捉えて経団連が、経営の柱に「社会」を加えることを会員企業に訴えたことが契機になっている。上記の「やや具体的なモラル」の一つとしての「企業に関わるステーク・ホルダー(利害関係者)全員の繁栄理念の確立」は、社会性を企業に持たせることを示唆しており、こうしてこの提言は九0年代に企業によって取り入れられていったと見ることができるのである。

<3>社会との関係を律するルール
このルールは、「法律による規制」というもっとも厳しいサンクション(制裁)と「モラルへの期待」という最も緩やかな(別の言葉でいえば企業の自律的な対応に委ねる)サンクションの中間に位置づけることができる。具体的には、社会の側が自衛的にとるべき手段、協定や定期協議、監視活動などを指している。公害問題に関して、企業と住民団体が公害防止に関して協定を結ぶケースが出てきたことが住民・市民の参加を必須の要件とするこの新しいルールに市民権を与えるようになったのである。「地域住民は環境資源の代弁者、消費者は製品使用の代弁者、地方自治体はこれらの者と企業との聞を結びつけ、対話の場を広げながら、企業の社会的責任、企業の福祉における社会的責任が確保されるように働きかける」という、新たに登場した当事者を含めて利害関係者同士の役割を再定義しようとする意見も出されている。具体的なルールとしては、「自治体ないしはその指定する地域ごとに、住民、消費者と企業との聞にブリッジをかけ、公益の立会いでコミュニティ機関を設定すること」、「消費者は企業経営者と定期的に話し合うこと」、「企業活動による地域住民の犠牲の代価と、企業の社会的に果たす貢献度を計量化すること」などが挙げられている。

<4>企業内社会でのルール
企業内社会のルールに関して寄せられた声は多岐に渡っているが、およそ次の六つに集約される。
・組織、制度よりも人間としてのモラル
「いかなる組織や制度を作っても、上に立つ経営者や従業員の意識しだいで良くも悪くもなる」という人間本来の資質や良心を重視する考え方である。
・具体的な制度、組織の点検、改訂
「社会の要請による企業行動に対する批判を的確に経営に反映できる組織」、「苦情処理や相談室組織の活用」など企業と社会との関係の円滑化を促進するための架け橋的組織を求める意見に代表される。
・労働組合の真の独立
労働組合の独立とは、労働組合が経営を対等な立場から批判する力を持つためには、それが不可欠の条件であるという考え方に基づく。これに対して「労使協議制」や「労使協調」を説く声もあり、意見は二つに割れている。
・生きがい、人間性の回復
回答者の頭の中に、従業員の人間性喪失が社会との断絶を生むという考え方が横たわっているようだ。そこから、「人間性回復のための組織、制度の活用」、「地域社会の福祉活動へのボランティア参加」などが提案されている。
人権や職場環境問題等も含めて、今日的な社会的責任の主要なテーマの一つは「人間主義」あるいは「人間性の尊重」であることは、現在ISOで検討されている企業の社会責任の分野にこの間題が含まれていることからも明らかである。問題としての重要性は益々高まっているといっていい。九0年代の我が国の企業の社会貢献のキーワードの一つは間違いなく「参加型社会貢献の推進」であった。その具体的な推進のエンジンとなったのが「従業員のボランティア活動の支援」であることは前述したとおりである。非営利活動、その内発的な源泉となるボランティアリズムはポスト工業化社会においてその意義が再認識され、有効な資源の一つとなりうる可能性をもっており、その意義は企業人の人間性回復に限定されるものではないが、しかし、七0年代においてすでに企業人のボランティア活動が提案されていたことは記憶に止めておいていい。
・従業員の忠誠心
市民は、従業員の企業内一家的行動が企業と社会の聞の溝を取り除く上で大きな障害になっているのではないか、と指摘している。今日では、労働者による滅私奉公的な生き方は、七O年当時と比べかなり比重が低下しているように思われる。企業や行政組織の多くの不祥事が社内告発によって暴露されるケースが増えていることにも、そうした変化が伺える。このような背景の一つの大きな要因になっているのは、ポスト工業化社会では、知識が生産の主要な要素となり、企業人(知識や技術を備えた人々)は資本に隷属するのではなく企業と対等の関係・立場に立つようになりつつある、ということであろう。同時に、ITなどの技術革新はそれがもっぱら仕事のプロセスの業務効率の向上に適用された場合フルタイムの雇用機会の減少を招き、これによって労働市場の二極化が進み、中流階級が崩壊するとの見方もある(注12)。この場合、企業は賃金格差や身分の違い、内部社員と外部社員(派遣社員など)などを内包する多層構造に転換せざるを得なくなり、均質性を薄める。これまで日本的経営の特徴とされてきた「共同体としての企業」の忠誠心は変質せざるを得ない。

 

企業行動規範の体系
私は、第一章で企業の社会的責任は「企業が行う義務のあるもの」、つまり「mustとであり、一方社会貢献は企業の自主性に委ねられるものとした。しかし、社会的責任と言っても、国家権力で強制される法的責任もあれば、社会的規範や世論のうねりに促されて果たす責任もある。企業の行動規範は「誰が」規制を行うかによって違いが生じる。つまり規制を与える主体の違いによって規範は区分されるわけである。同様に、規制には幾つかの志向性がある。「どのような方法・志向性をもって行うか」によって規範の領域に線を引くことができる。
ここに着目したのが、野田、菅家の両氏であった。彼らは「誰が」および「どのような方法」で行うかのマトリックスを作ることによって、企業の社会的責任の要素を理論的な枠組みの中に措定する試みを行った。
「サンクション(制裁)の供与者が誰か」によって行動規範は次の三つに分類される。
<1>サンクションを与えるのが国家権力である場合、法規範と契約規範に基づく。これらの規範はもっぱら義務の領域に属する。
<2>サンクションを行使すつ主体が国家以外の場合で、社会的規範として明示的あるいは暗黙的に確立されているケースとそれらの確率が期待されるもののまだ国民的コンセンサスが成立していないケースとがある。野田、菅家はこの領域を「社会的責任の領域」(グレイ・ゾ-ン)と呼ぶ。
<3>自己規制の領域と呼ぶべきもので、本来、行動主体の倫理、道徳心に委ねられる。外からの強制力を伴った働きかけが不適当な領域である。我が国の文化的伝統である陰徳、今日の企業の社会貢献活動がこの領域に該当する。

一方、規制・規範を強いるやり方のタイプによる分類は次の三つからなる。
<1>法令指向型。当事者(行動主体とその影響を受ける者)の意思の如何に関わらず、同じ行為に対しては強制的に適用される規範である。原則的には法制化が可能な領域である。
<2>契約指向型。この領域では、規範は当事者間(行為主体とその影響を受ける者)の交渉と合意によって設定されるかあるいは設定されるべきものである。この領域では、当事者の自由意志による合意と確実なその履行を目的とするものであるから、理想としては、この領域の規範が全て義務の領域に位置付けられることが望ましい。
<3>その他型。法令や契約による責任追及には適さないが、何らかのサンクションが与えられるべきもので、かつその可能性があるものとされる。現代の用語を使えば、この領域は「情報公開・第三者評価の領域」ということになるだろう。今日では、このタイプの責任追及によって、会社の名声や評価に影響が出るだけではなく、消費者行動(売上の増減)、投資家の行動(株価の上下動)などにも影響を及ぼすようになっている。
以上の二種類の規範分類をマトリックス化したのが、表3「企業行動規範のマトリックス」である。
このマトリックスを見ると、野田、菅家両氏が概念化した「企業の社会的責任」の領域は、「義務の領域」と「自己規制の領域」の聞にはさまれた「グレイ・ゾーン」であることがわかる。国家ではなくほかの主体、即ち社会がサンクシヨンを与えるものが社会的責任の領域と考えるならば、彼らの概念規定は納得できる。いわば、これは狭義の「企業の社会的責任」といえる。一方、国家による制裁も反社会的行為に対する最も厳しい制裁と考えられるのであるから、これを「企業の社会的責任」に含めることは不適切なことではない。この場合、それは広義の「企業の社会的責任」と呼ぶべきものだろう。

 

新しい社会運動と企業の社会貢献
七0年代、企業の社会的責任論議の発端となった消費者運動、住民運動は、それまでの「社会運動」とは性格を異にするものであり、これ以降の「新しい社会運動」のさきがけとなった。それは、これらの運動が、天野正子が指摘したように、「先進産業社会が追い求めてきた『物質的』価値への反省と『脱物質的』価値への転換」への摸索が生み出した社会運動であり、「『繁栄』の中から生み出された、しかも『繁栄』との対決を目指す運動」(注13)とでもいうべき要素を備えていたからである(注14)。それまでの社会運動は、主として労働者階級の名において勤労者が生産の拠点で行ってきたものであった。争点は生産の果実をめぐる配分かあるいは労働条件の改善にもっぱらかかわっていた。
そうした運動の根底には、あえて単純化すれば企業という社会システムに対する二つの相反する考え方が横たわっていたといえよう。一つは企業という存在は「利潤追求を宿命とする悪の制度(剰余価値を我が物にする搾取システムとであるからこれを固有化すべきであるという否定論であり、もう一つは企業は労働者を生産の大きな要素にしているのだから、彼らの権利を尊重しまた生産の成果をできるだけ労働者に配分することによって、豊かさを生み出す機能を持つ企業をよりよいものに改良することができるという、いわば企業を肯定する考え方である。いずれの考え方も、企業は資本と労働の戦いを内包するもので、資本に対抗できるのは労働者であり、生活や地位の向上という要求を突きつける運動の担い手は労働者自身以外には存在しなかった。
これに対して、新しい社会運動は生産拠点の外にある地域社会や様々な生活の場から起こった。そうした場で運動を立ち上げたり、ここに参加したりするのは、主婦や青年、そして出自は企業や役所に勤める勤労者までを含む地域住民であった。「新しい社会運動」は、工業化の進行によって引き起こされた地域破壊や環境破壊に対する自然で内発的な反応から起こったものであり、最初は生活を守るという地点からスタートしていたが、それは同時に豊かさとは何かという問いを自らに突きつけることとなって、豊かさを享受するだけの受動的な生き方を見直して人々が自律性を取り戻し(あるいは確立し)地域や社会に自分達の目指す生活のあり方や改革案を提案し、根付かせようとするものに発展していった。その意味で、新しい社会運動は、それまでの対決型(要求突きつけ型)から対案提示型へと脱皮していったのである。こうした中で、企業に対する人々の認識・態度も変化していったことは間違いない。
野田、菅家の『企業と社会』の中の市民アンケートの結果から、そのような市民自身の意識の変化が伺える。「社会的責任」の問題の取り上げ方について、「新聞が大きく取り上げすぎる」、ご部の人々の主張が拡大されている」、「こうした風潮に便乗してごね得する人々がいる」という批判的意見を持つ人々も一定程度いたことをこの調査は教えている。消費者および地域住民に対する批判と要請の中で、最も指摘が多かった意見の一つは、「消費者、地域住民はもっと賢くなるべきである」というもので、具体的には「ヒステリックな叫びだけでは世の中が変わると思うな」、「国民経済の仕組みを学び、利己主義に走らぬこと」、「一方的な被害者意識ではなく、経済を動かす一つの主体として無責任な情報に踊=りされることなく、冷静かっ賢明に行動すること」、「企業の実態についてもっと勉強すべきである。特に技術的な知識が不足しているL、「住民運動に弱点がある。金銭処理で解決しようというムードがある」などと語られている。「地域エゴがある。ゴミ戦争や日照権についての住民運動には反感を覚える」といった、住民エゴを批判する声も強かった。
七0年代以降、相手に求めるだけでなく、カウンター・パワーとしてあるいは新たな生活の提言者として市民が社会運動(たとえば生活クラブ生協による共同購入など)やサービス提供活動(たとえば高齢者への食事サービスなど)に参加する動きが急速に広がっていった。こうした活動の活発化に伴いそれまで主に企業や政府が担ってきた商品やサービスの開発・生産・販売といったオフィシャルな経済システムに対置するものとして市民が作り出す生産・流通システムや企業・行政では対応が難しい多様で個別のニーズに応えるものとしてのサービスが加わり、社会サービスは総体として厚みを増すようになっていったのであった。人間の関係を「生産者と消費者」というこつの要素に還元させたのが工業化社会の基本的枠組み・特徴であったとすれば、新たな生活の提言運動は、その枠の外に「生活者」という立場を対置して様々な生活上の欲求を実現しようとするものであったといえる。それは家族の力、コミュニティの力、その源泉である相互扶助や自助といった社会的連帯の文化的伝統を掘り起こし、それを引き継ぎ発展させるという意義も持っていたと思われる。その意味で、ポスト
工業化社会はコミユニティがより重要な意味を持ってくるのである。
七0年代は、社会の「公正と効率」のバランスをどうとるかという問題に関して、新たな展開の道が聞かれたときであったということもできる。旧来、「公正」は国家の名のもとに政府が法律や指導を通じて執行するものであった。しかし、市民が新たな社会運動や地域活動を通じて生み出した様々な生活提案やサービスは、政府が「公平一律に」を原則に提供するものとは性格を異にしていた。それは、既存の公正という概念の枠をはみ出すものであった。むしろ、市民的公正、新しい公正とでもいうべきものであったろう。人々が自発的に行う「新しい社会運動・地域活動」は、今日「市民セクターLという広がりのある概念の一部を構成するようになっている。
「市民セクター」と企業の関係は一二一口で尽くすことが難しい。原理的に異なるのだから両者はあいいれないという考え方も一部にはある。しかし、自分達のミッションを支持してくれるなら企業の寄付や支援も受け入れる、という態度の市民活動団体もある。ミッションが多岐に渡るようになれば、両者の関係も次第に多様化し成熟したものになっていくのではないか。九0年代、企業の社会貢献活動が急速に発展・成長・定着したのは、「市民的公正を求める活動」の成長と高まりが何ほどかの影響を与えたため、と考えることができる。それにしてもそうした変化が表層から深部にまで至るにはなお二O年近い歳月が必要だったのである。

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