(1)肯定論と否定論

企業の社会貢献の是非をめぐる論議は哲学論争のような要素を持っており、その肯定論及び否定論ともにそれぞれの根拠を持っている。否定論の代表的見解としてしばしば引用されるのは、ミルトン・フリードマンの次のような主張である。

 

〈フリードマンの否定論〉
「法人企業の役員と労働組合の指導者の間では、自分達の株主もしくは組合員の利益に奉仕するにとどまらない「社会的責任』を持つという見解が広く受け入れられるようになってきた。この見解は自由経済の性格と本質についての根本的な誤解を表している。自由経済においては、企業の社会的責任は唯一無二である。それは、ゲームのルールの範囲内にととまる限りにおいて、言い換えると、詐欺や不正手段を用いず、聞かれた自由な競争に従う限りにおいて、企業の利潤を増大させることを目指して資源を使用し、事業活動に従事することである。……法人企業の役員が株主のために出来る限りの利益をあげるということ以外の社会的責任を引き受けることほど、我々の自由社会の基盤そのものを徹底的に掘り崩す恐れのある風潮はほとんどない。もし経営者が株主のために最大の利益をあげるということ以外の社会的責任を実際に持つとした場合、彼らはそれが何であるかをどうやって知るのだろうか。仲間内だけで選ばれた私的個人が社会的利益の何たるかを決めることが出来るのだろうか。彼らは社会的利益に奉仕するために、とのくらい大きな負担を自分自身また株主に負わせるのが正当とされるかを決めることが出来るだろうか。……社会的責任論の領域での一つの話題で、私自身の利害にも影響するので、是非触れておく義務があると感じるのは、企業は慈善活動を支援するために、またとりわけ大学に対して寄付を行うべきだという要求についてである。法人企業によるこのような贈与は、自由企業社会では会社の資金の不適当な使い方である。法人企業はそれを所有している株主の道具である。もし法人企業が寄付をするならば、それは個々の株主が自分の資金をどのように処分すべきかを自分自身で決定する自由を妨げることになる」(注1)
フリードマンの指摘は、企業の社会貢献(彼は社会貢献を『社会的責任』に含まれるものとして考えている。そこでここでは彼の言う社会責任を社会貢献と言い換えることにする)に対する否定論の主要な論点を見事に集約している。彼が指摘している企業の役割と能力は、次の三点である。
<1>企業は自由経済のルールに従って活動すべきであって、その唯一の責任は利益をあげ株主に配当を行うことである。それ以外の責任はない。それ以外の責任を-認めると自由社会は企業国家になってしまう。
<2>企業は社会的問題を解決する能力に乏しい。
<3>企業が行う寄付は株主が決定すべきものである。

 

〈ドラッカーの肯定論〉
こうした否定論に対してしばしば対置される肯定論は、ピーター・ドラッカーの指摘である。
彼は『新しい現実」(注2)という著書の中で一九六0年代1七0年代に荒廃したニューヨークを
復興させた八0年代の建築ブームに言及しながら、企業などの社会的機関がコミュニティで果たすべき社会的責任(貢献)の必要性とその程度を論じている。
「社会的機関はみずからが原因となっていない地域の問題、たとえば社会的問題について責任を果たす必要があるだろうか。もし責任を果たす必要があるとすれば果たしてどの程度果たすべきだろうか。一九六0年代、当時のニューヨーク市長はニューヨークの大企業に対して、社会保障の対象となっている黒人の未婚の母親の面倒を見るように要請した。……しかしニューヨーク市長は笑いものになっただけだった。彼の呼びかけに応じた企業はなかった。その二O年後の今日、犯罪と麻薬はさらに蔓延し、市のサービスもさらに低下している。ところがニューヨーク市は、一九八0年代に入って見事に復興した。それは、マンハッタンにおける建築フームのおかげだった。……ほかにも似た例がある。麻薬に対する戦いにおいて、結局主導的役割を果たしたのは、ボーイスカウトとガールスカウトだった。アメリカでは、小学生四人に一人がスカウトに入っている。両スカウトは、麻薬に接する前の段階で子供達に心理的抵抗力をつけることに大きな成功を収めた。この二つの例が教えていることは、そしておそらくこれがもっとも重要なことだが、今日地域社会に対する責任をめぐって行われている論議のほとんどすべてが、全く的を外れたものであるということである。
地域社会に関する論議のほとんどは、二O年前のニューヨーク市長と同じように、社会的機関特に企業たるものは、すべからく地域社会の抱えるいかなる問題にも直ちに取り組まなければならない、と要求している。『もし企業、労組、病院、大学がかくも強大であり、かくも専門的な力を持ち、かくも有能な存在であるならば、なぜ貧困、無知、教育などの問題に取り組まないのか』という考え方である。
しかし、数としてははるかに少ないが、このような考え方に対して、社会的機関は、真にみずからの機能でないものには一切手を出すべきではないと説くノーベル経済学賞受賞者ミルトン・フリードマンと同じ考え方を持つ人たちもいる。フリードマンは、「企業は本来の事業を満足に行うだけでも難事である。したがって顧客が欲する財やサービスを生産し、かつ明日の危険、投資、成長に必要な資本を形成するための利益を得ること以外の活動にかかわりをもつことは、その社会的責任に反する』と論じている。
しかし、これら二つの考え方は、いずれも正しく、また間違いである。多元社会の諸機関は、現実の問題として地域社会の中に存在する。中世期のベネディクト派の修道士とは違い、周囲の世界が崩壊しているときに他と絶縁して避難しているわけにはいかない。しかし同時に、みずからの限定された能力を超え、みずからの機能を無視して行動することは不可能であるし、また間違いである」
さらに彼は、二O世紀初頭、シカゴの一介の衣料商人でしかなかったジュリアス・ローゼンワルドがシア|ズ・ローパックという赤字の通信販売会社を買い取ってほぼ一O年で世界で最大かつ収益最高の小売業に成長させた事例を引きながら、「健全で活力ある地域社会への関心という意味での地域社会に対する社会的責任は、多元社会の諸機関にとって、慈善活動ではないということである。それは自己の利益に合致する活動である」と結論している。ローゼンワルドのとった対応は、農家の近代化を助けるための農業技術普及指導所を作り、その成功を見たアメリカ政府がそれを引き取るまでの一0年間、資金的な面倒まで見るというものであった。「こうして農家は、専門的な技術を手に入れ、生産性を向上させた。そしてそれに伴ってシア1ズの商品を買えるだけの購買力を手にした。もしこのときフリードマンが相談を受けていたならば、事業に専念し、農家のことは政府に任せておくべきことを助言したに違いない」と、ドラッカーはフリードマンの考え方を皮肉っている。
彼は最後に、社会的責任を果たすための次のような幾つかの厳格な条件をあげている。「まず、問題の性格が、その機関の専門能力に合致したものでなければならない。またその機関の価値観にも合致したものでなければならない。そして、それは、現在行っている本来の活動の延長線上にあるものでなければならない。それは本来の活動から逸脱したものであってはならない。その意味ではフリードマンは正しい」

ドラッカーの論点は次の三点に集約できよう。
<1>企業は今や社会的組織であり、地域社会の問題に関わる社会的責任がある。
<2>しかし企業はその本来の機能として経済的合理性を追及すべきで、社会貢献も企業本来の専門能力、ビジョン、価値観に合致していなければならない。
<3>企業の社会貢献は健全で活力ある地域社会を守り育てるという意味で社会的責任であり、それは慈善活動ではなく自己の利益に合致する活動である。長期的視点で見れば企業の自己利益に結びつく。
ドラッカーは、必ずしもフリードマンの考え方を否定しているわけではなく、彼もまた企業があらゆる社会的問題に関与するやり方には反対している。それは、そのような企業の社会的責任行動の増大によってやがて、法人国家という民間の独占企業が公益を支配してしまう事態を招くのではないかという懸念からというよりは、企業本来の専門能力、ビジョン、価値観に合致しない社会的責任行動は必ず失敗するに違いない、という確信に基づいているからだろう。

(注1)ミルトン・フリードマン著、熊谷尚夫ほか訳、『資本主義と自由』、マグロウヒル好学社(一五ー一五三ページ)

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