(5)石門心学と経済倫理の関係

 

〈心学の成立とその要素〉
石門心学は、石田梅岩(一六八五~一七四四年)が創設した宗教思想に基づく経済倫理実践運動である。梅岩没後もその後継者である手島堵庵(一七一七~一七八六年)や中沢道二(一七二五~一八O三年)らによって日本各地の都市部を中心に広められ、江戸後期に至るまで一OO年以上にわたって商人のみならず武士、農民にも浸透した。近世日本の民衆の道徳と生き方に最も大きな影響を与えた宗教|倫理運動の一っと言われている。
梅岩は丹波の国桑田郡東懸(とうげ)村(現在の京都府亀岡市)に農家の次男として生まれた。一一歳で当時の一般の慣習に従い、京都の商家に奉公に出たが一五歳の時に実家に戻り、二三歳の時に再び京都で奉公するようになるまでの八年間農業に携わった。青年期におけるこの八年間の奉公の中断は、梅岩に普通の商人の道を歩む機会を失わせた。しかしそれはまた梅岩にもう一つの道を選ばせるきっかけを与えることになった。梅岩は、青年期から自分が理居者で人に嫌われる意地の悪い人間であるという内面の苦悩を抱き、攻撃的で他者を思いやる心のとぼしい自分の自己改革を成し遂げたいという強い思いがあった。再び京に出てきたとき梅岩は、神道を説き広めて人の道を勧めたいとの堅固な意思を持っていたのであった。自身の内面的苦悩解決の道を、心の清浄を説く神道に求めたのかもしれない。神道は彼の出発点であるとともに終生変わらず彼の思想を支えた要石であった。

人に道を説くためには、その根拠となる哲理を極める学聞が必要だった。そのため彼は商いに出るときも書物を懐中にしのばせて暇を惜しんで学んだり、ほかの奉公人より早起きして書に向かいまた人が寝静まった後に書を読んだりして研績を積んでいった。四Oにして真理を体得したとの確信を得た梅岩は、その三年後に奉公を退き、四五歳のときに初めて自宅を会場にして聴講費なしの講釈を始め、死に至るまで続けたのであった。最初の頃は講釈を聞きに来る聴衆は少なかったが、次第に門弟も増え数年後には男女の聴衆が群れをなすほどになった。彼は正直と倹約を実践倫理の中心に位置付けていたが、彼の生活もまた文字通りこの思想を貫くものであった。妻ももたず自炊し、講義と質疑応答と読書、そして朝夕の神儒仏への敬度な礼拝が彼の変わらぬ日課であった。また彼は飢謹などの災害時には門弟とともに炊き出しなどの救済活動を行った。
ほとんど独学で心学の思想を確立する過程で、彼は仏教(真宗と禅宗)の影響を受けている。まず彼が二度目に奉公した商家は、篤い信仰心を持った本願寺門徒で、店の丁稚にまで御堂参りをさせるほどであった。梅岩は神道を奉じていたので、寺院を参詣することはあまりなかったが、彼が後年毎朝夕礼拝した仏とは、弥陀・釈迦仏であったことか’りすれば、梅岩が真宗の影響を受けていたことを認めてもいいと思う。一方、禅宗の影響は大きかった。彼が師として仰いだ小栗了雲は、宋学(性理学)に学識があり、禅宗および道教にも精通していた。了雲の弟子となった後、梅岩が膜想の行に没頭してやがて悟りを得ることができたのは、了雲の禅の方法によるリードがあったためと見られる。このように、神道と仏教が彼の思想形成に影響をもた3りしたが、しかし、何より彼の思想の骨格を形作る基礎的な素材となったのは儒教―特に性理学(朱子学)と孟子であった。彼が到達した境地は「学問の至極といふは、心を尽くし、性を知り、性を知れば、天を知る」(注1)といものであったが、これは「その心を尽くす者はその性を知るなり。その性を知れば即ち天を知る」(注2)という孟子の言葉に照応するものである。「天を知る」ということは梅岩にとって自分の心が天の心と一つになることであった。これが梅岩の悟りであった。

 

〈学問の究極〉
心学のキーワードは「性を知る」ことである。「性」とは「天の理をわが心に備えている」ことであり、梅岩は、人が心を尽くしてそれを知るとき、「五常、五倫の道はその中に備わっている」と深く信じた。五常とは、儒教における人の常に行うべき五つの倫理徳目、即ち仁・儀・礼・智・信を言ぃ、五倫というのは、人間関係を律する五つの徳目(父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信)を言う。つまり人は天と心が一致したときは自然にそこに倫理道徳が備わっているというのが、心学の核心である。
それではどのようにして悟りを聞くのか。別の言葉でいえばどうすれば「心を尽くす」ことができるのか。
私心を無くすこと、我欲、利己心を脱却して無心の本来の自分になること。これが梅岩の言う天との合一の道であった。その一つの方法は膜想である。眠想以外は、講義と質疑応答(知を磨くこと)であった(注3)。
しかし、梅岩にとっては、瞑想と知的練磨はいわば補助的な手段にしか過ぎなかった。彼が人々に示した真の学びの道は、職分意識を持って禁欲的に職業に献身することであった。
つまり世俗的な行の実践こそがもう一つの方法であった。膜想や知を磨くことというと、ややもすれば人々に解脱―つまり世間からの隠遁を勧めるような響きがあるが、彼が説いたのはまったく正反対の方向であった。彼が理想と考えた学問の真髄は、彼が簡潔に表した次の言葉に要約されている。

義をもって君を貴び、仁義をもって父母に事ふまつり、信をもって友と交わり、広く人を愛し、貧窮の人を慰み、功あれど伐(ほこ)らず、衣類、諸道具に至るまで約を守りて美麗をなさず。家業に疎からず。財宝は入りを量りて、出すことを知り、法を守りて家を治む。学問の道あらましはかくの如し(注4)

ここに説かれているのはまさに原則的・一般的な五常、五倫の道の実践である。しかし、最初に「義をもって君を貴び」としているところに梅岩の思想の特徴が最も端的に表現されている。本来「義をもって君を貴ぶ」のは武士の本分である。梅岩が教えの対象としたのはもっぱら町人―ほとん献どは商人である。町人が臣として仕える君とは一体何か。もう少しつぶさに彼の職分観を見てみよう。

士農工商は天下の治まるたすけとなる。四民かけてはたすけなかるべし。四民を治めたまうは君の職なり。君をたすくるは四民の職分なり。土はもとより位ある臣なり。農人は草奔の臣なり。
商工は市井の臣なり。臣として君をたすくるは臣の道なり。商人の売買するは天下のたすけなり。
……天下万民産業無くして何をもって立つべきや(注5)

ここには二つの明確な力強い主張がある。一つは、士農工商は君(国家)の臣であり、それぞれが臣として国家に対する忠義を果たさなければならないという積極的で能動的な責任意識を説いていることである(「商工は市井の臣なり。臣として君を助くるは臣の道なり」)。垂直型の忠義志向が濃厚で、士農工商が果たしている有機的社会的役割から導き出される一般的かつ平板な倫理意識をはるかに超えている。
もう一つは、商人の仕事は天下のたすけとなる重要不可欠な役割を果たしているという、商人階級への共感・支持のメッセージが述べられていることである。彼が士農工商を引き合いに出すのは、それぞれの四つの機能を並列的に論ずるためというよりは、ほかの三つの職能よりも庇められている商人の地位を正当に評価し、他と比べ遜色ない位置付けを与えるためであるといえる。

商人の道と言うとも何ぞ土農工の道に替ること有らんや。孟子も、道は一なりとのたまう。士農工商ともに、天の一物なり、天に二つの道あらんや(注6)。

梅岩はさらにそれ以上の主張を展開する。商人の利益を武土の禄と同じものと見なすことによって、商人のあり方を士に比すものとするのである。
商人の売利も天下御ゆるしの禄なり。それを汝ひとり売買の利ばかりを欲心にて道なしといい、
商人をにくんで断絶せんとす。何をもって商人ばかりをいやしめ嫌うことぞや。……商人の利を受けずしては家業っとまらず。土の道も君より禄を受けずしてはっとまらず。君より禄を受けるを欲心といい、道にあらずといわば、孔子孟子を始めとして、天下に道を知る人あるべからず(注7)。

 

〈心学と世俗倫理正直と倹約〉
商人は武士と比肩する道義的責務を持っており、規範意識を持って商人の道を実践しなければならない。それは君(国家)への忠誠を貫くことであり、その責任意識と職業への献身によって人々は私心から解き放たれて、本来の自分の心|自分であって自分でない天との合一を実現するだろう。以上が梅岩の説いた心学の教えの核心であった。
彼の講釈を聞くために大勢の町人が訪れるようになったのは、卑しめられてきた彼らの存在を正当化してくれる道理と日々を生きる心の支えとなる倫理をそこで学ぶことができるからであった。
梅岩は、町人が責任意識をもって職業への献身を行う上で、倹約と正直を倫理の根幹に据えた。彼は、奉公人として働くことを通じて商人の家が最も衰えやすいものであることを身にしみて実感してきた。その原因は、「愚痴と奪り」であると彼は指摘している。

家を興し亡ぼす理は一なり。著りは日に長し安し。恐れ慎むべきことなり。子日、檀はその奮らんよりはむしろ倹せよと、また約(つつましさ)をもってこれを失するものはすくなしと(注8)。

倹約は、彼自身が見聞して悟った倫理徳目であるとともに、孔子が論語において諭した古の規範でもあったのである。彼はその倹約を、さらに私欲に基づく倹約と正直に基づく―即ち欲心を離れた倹約とのこつに分け、私欲による倹約を「苔雷」に至るものとして否定的に評価し、正直による倹約をあるべきものとして高く掲げたのであった。

倹約をいふは他の儀にあらず、生まれながらの正直にかえしたきためなり。天より生民を下すなれば、寓民はことごとく天の子なり。かかるがゆへに人は一箇の小天地なり。小天地ゆえ本私欲なきものなり。このゆへに我が物は我が物、人の物は人の物。貸したる物はうけとり、借りたる物は返し。毛すじも私なくありベかかりにするは正直なるところなり。この正直おこなわるれば、世間一同に和合し、四海の中皆兄弟のごとし(注9)。

 

〈心学と社会貢献〉
このように、倹約の実践は、梅岩によれば生まれながらの正直に立ち返る道なのであった。彼はまた倹約の中に仁を見ていた。「財宝を用ゆること倹約(つつまやか)にする中に、人を愛するの理備われり。人を愛せんと欲すとも、財用たらざればあたわず。しかれば、家国を治むるには、倹約はもとなること明らかなり」(注問)と彼は述べている。倹約によって余剰(蓄え)を得ることができ、それを用いることによって「広く人を愛し、貧窮の人を態むこと」が可能となるのである。少し長々と梅岩の心学の内容を見てきたが、我々はここにおいて梅岩の社会貢献活動は、「倹約」という経済倫理と表裏の関係にあることを理解することができる。そして、またそのような社会貢献活動を促す根本の動機は、儒教の説く仁愛にあることも知ることができるのである(真宗においても、社会貢献活動〈陰徳〉は倹約という徳目と結びついていたことを想起されたい。真宗においては陰徳の根本動機は慈悲心であった)。
梅岩が心学の講釈を開始した頃、貨幣経済の発毘により、我が国の封建体制はようやく揺らぎを見せ始めていた。八代将軍に就任した吉宗は享保の改革を断行して封建秩序の挽回を図った。徹底した行政改革と綱紀粛清、農業生産力の増強と通貨・米価等のコントロール強化策が執働に進められた。
消費と享楽は抑制され、倹約と勤勉が美徳とされた。こうしたあおりで多くの商家が倒産した。さら曜に幕府は、武士と町人の金銭貸借に関する訴訟を禁じて、武家の債務を実質的に免除する徳政令を実甜施した。「商人が潰れることなどかまうことはない」という荻生但僚の考え方が享保の改革を貫く基調であった(注11)。勃興期にある商人階級にとってこれは厳しい受難の時であった。町人達は、無蜘謀ともいえる封建権力の専横に耐え、地道に商業を行うための自己確立を遂げていかねばならなかった。まさにこうしたときに梅岩は自分の家を講義所にして講釈を始めたのであった。彼の説く教えは、乾いた土に水がしみこむように聴衆の心に染み入っていったに違いない。
心学運動は、梅岩の定めた質素な生活基準が後継者である門弟達によって維持されたので多くの経費はかからなかったと言われるが、極めて慈悲深い支援者達の寄付によって支えられていた。心学は最盛期には三四カ国に一八Oの量舎(学校)があったという。各餐舎では事務的な仕事を行う職員や講師を務める職員(生徒や一般の支援者の寄付によって賄われていた)がいて宗教的かっ教育的活動を行うほかに、社会貢献活動(困窮者や被災者の救岨活動)を行った(こうした醤舎の敷地は気前のいい支援者によって提供されていた)。醤舎には、病人のための薬や乳の出ない女性のための乳母が用意されていたという。そこは敬度な倫理道徳(禁欲主義)と人間愛のあふれた学びやであった(注12)。
手島堵庵の門人で、多くの著作を残し、また社会貢献事業で知られる脇坂義堂(?~一八一八)は次のような訓戒を残している。心学において世俗倫理がどのように平易に説かれていたかが伺われる。

一、神仏儒を尊び、万実意を大事とせい。
一、ご法度に従い、分限に応じ、倹約を大事とせい。
一、家内むつまじく、家業家職を大事とせい。
一、忠義孝行、並びに堪忍を大事とせい。
一、慈悲、陰徳、身の養生、家の養生を大事とせい。
一、身をよくし、子孫家来の教えを大事とせい。
一、福は労にありと知り、今日の勤めを大事とせい(注13)。

社会貢献活動については、「慈悲、陰徳」として五番目に掲げられている。心学は、神道、仏教、儒教という三つの宗教を養分として合成された宗教|倫理思想であったから、それを説く講師のバックグラウンドや個性によって、このように、たとえば社会貢献が仏教的概念を一不す言葉を用いて表現されることもしばしばあったようである。ここで大事なことは、社会貢献がどのような宗教的背景から説き起こされていたかではなく、社会貢献自体が倫理徳目の中に含まれていたということである。心学が都市部を中心に広く浸透していたことを考えれば、社会貢献(陰徳)は多くの町人によって実践された活動であったと思われる。

 

〈脇坂義堂と中井源左衛門良祐の社会貢献活動〉
松平定信がホームレスのために佃島に作った社会施設の講師を務めた義堂は、一八O四年に完成した逢坂山の車石(荷馬車や牛車の車路)工事の発起人となってこの事業の実現に逼進したことで歴史にその名を残している。彼は同志を募り支援者からの醸金とともに幕府に道路工事を献策した。幕府はその献策を受け入れ、京都と大津を結ぶ疲弊した道路に花商岩を敷き詰める改修工事を実施したのである。この事業の支援者の中心となったのが、義堂が懇意にしていた近江・日野の豪商中井源左衛門良祐であった。彼は一OO両を寄付したといわれている。中井良祐は、当時の長者番付に名を連ねるほどの富裕な商人であり、そのような有力な立場の彼が心学の唱導者である義堂と親しい関係にあったことは、心学と商人の聞の一般的な関係を象徴するものであったと見ることができる。つまり、義堂も中井良祐もそれぞれの分野で実績をあげた力量のある人物であり、彼らの考え方や行為が当時の人々に一定の影響力を持っていたことを考えれば、そうした関係は単に二人の個人的で特殊な関係にととどまるものではなく、商人階層と心学との聞にかなりの広がりを持って結ぼれていた、と考えて差し支えないと思われる。中井良祐は近江商人を代表する存在で、「産物回し」という広域的な商業活動で成功したこと、今日の複式簿記に相当する会計方式を用いていたこと、洗練された家訓・店則を備えていたこと、各方面へ社会貢献を行ったなどで知られている。一九歳の時に二両の自己資金を持って関東に合薬(数種の薬剤を調合した薬)行商に出た中井良祐(一七二ハ1一八O五年)は、勤倹力行により次第に富を蓄え、事業を拡大するとともに店舗を全国に敷設するようになった。彼は東北から九州まで二Oを超える支店を置いて「産物回し」といわれる方法で異なる地域の産物をその地の支店からそれぞれ異なる地域の支店に搬送し、たとえば京阪地方の古着を東北に送って販売する一方、東北の生糸や紅花、漆などは京阪に運送しその地の需要に応えることによって産をなしたのであった。彼が二代目に家督を譲ったときの資産は八七二五五両に達したという(注14)。
良祐の家は代々の浄土宗信徒で、彼自身も信仰心に篤く地元の寺院の改修や神社の造営などに幾度も寄進をしている。また瀬田の大橋を独力で架け替えたり、前述した逢坂山の車石の敷設工事に対して寄付を行ったりしている。極めて社会貢献マインドの横溢した人物であった。彼が家訓として残した金持ち一枚起請文(注15)は、義堂が自身の著書の中で紹介しており、家訓の典型として名を残している。事業と倫理、社会貢献との関係が簡潔に示されているので以下に紹介する。

もろもろの人々沙汰し申さるるハ、金溜る人を運のある、我は運のなきなどと申ハ、愚にして大なる誤なり、運と申事ハ候はず、金持にならんと思はば、酒宴遊興奮を禁じ、長寿を心掛、始末第一に、商売を励むより外に仔細は候はず、この外に貧欲を思はば先祖の憐れみにはづれ、天理にもれ候べし、始末と喜きの違い(注16)あり、無知の輩ハ同事とも思うべきが、喜光は消うせぬ、始末の光明満ぬれば、十万億土を照らすべし、かく心得て行ひなせる身には、五万十万の金の出来るハ疑いなし、只運と申事の候て、国の長者とも呼るる事ハ、一代にては成りかたし、二代三代もつづいて善人の生まれ出る也、それを祈候には、陰徳積善をなさんより全別儀候はず、滅後の子孫の奪りを防んため、愚老の所存を書記おわんぬ

 

〈心学と国体思想〉
心学は、町民階層に大きな影響を与えた宗教i倫理実践活動であった。その意義をもう少し正確に述べるとすれば、それは江戸時代の町人の生き方に自覚と自信を与えただけではなく、次の時代(明治維新)に対する庶民の心がまえを整えさせるという機能も果たしたのであった。
心学の思想は、その全ての構成要素が「天との合ごという宗教意識に収飲されている。彼が「天との合ごを説いたのは主として町民であった。商人はいわば卑しい庇められた存在に置かれていた。彼らが気概を持って雄雄しく生きていくために、彼は彼らに士農工商は国家(君)の臣であるという社会意識を浸透させた。その社会意識に立脚して士に匹敵する禁欲主義、即ち倹約と正直を貫く職業の実践を彼は求めた。それは私心を無くすこと、無欲無我の、つまり没我的献身を行うことであった。
ここで我々は、彼が若いときから神道を奉じていたことを想起しなければならない。彼は、天照大神を日本の祖先として崇拝すべきであると説き、「我性を覚悟して見れば、神らしきものなく、大極また仏らしきものもなし。因ってこの性を会得すれば儒老荘仰、百家衆伎といえども、皆我神国の末社にあらずと言うことなし」(注17)と言っている。彼はまた、「我朝の神明も伊拝諾尊(いざなぎのみこと)、伊弊舟尊(いざなみのみこと)より受けたまひ、日月星辰より、万物に至るまで総べ主りたまひ、残るところ無きゆえに神国とはいえり。……然れども唐土に替り我朝には、太神宮の御末を継がせたまひ御位に立たせたまふ。よって、天照皇太神宮を宗廟と崇め奉り、一天の君のご先祖にわたらせたまえば、下万民に至るまで参宮と言いてことごとく参詣するなり。唐土にはこの例なし」(注18)とも述べている。彼の国体意識、つまり国家観は、天照太神宮を先祖とする天皇に対する崇拝が基礎をなしているのである。彼の言う「義をもって君を尊ぶ」における「君」の意味がここにおいてより明瞭になってくる。それは中国の政治の歴史と異なり万世一系の歴史を持つ聖なる天皇への忠義の意義を帯びるのである。
ロパー卜・ベラーは、「徳川および明治時代(そしてさらにもっと初期の時代)における日本のナショナリズムのあらわれは、ほとんど国家神道のあらわれと見ることができる」と指摘している。さらに彼は「この意味(ナショナリズムのあらわれー筆者注)の国家神道は、徳川時代を通じて着実に増大し、……。末期までには、第一義とする教義のうえで、天皇の特別の神聖な祖先神と天皇の性格、および『神国』日本に関することについては、ほとんどの宗教的信条ではおおむね一致していた。こうした日本のナショナリズムの意味で、国家神道は、他の諸宗教と両立できないことはなく、またこのことから、明治政府は国家神道は『宗教にあらず』と主張することにもなった」(注19)という興味深い洞察を提示している。
心学が国家観として天皇を強調したことは、民衆レベルで尊王イデオロギーに呼応するナショナリスティックな政治意識を喚起したという意味で、明治維新の下地作りに手を添えたもの、ということができる。司馬遼太郎は『この国のかたち四』の中で「一君万民という思想は、幕末……多くの人に共有された」(注20)と述べている。「一君万民」思想というのは、天皇を論理の頂点に置くことによって、世の中(士農工商)は平等になるという考え方である(注色。幕末民衆が抱いたナショナリスティックな政治意識は、天皇に現実の支配権を回復させれば、天皇のもとに四民平等の平和と倫理が回復されるであろうというユートピア願望を蔵したものであったろう。
しかし、一九世紀末の緊迫した内外情勢の中で、我が国に天皇と人民が睦み合う牧歌的な古代の桃源郷を作ることほど非現実なことはなかった。政権を奪取した下級武士たちを中心とした明治政府は「天皇教」とでも一言うべきイデオロギーを作り出し、これを挺子にして軍事力を基礎に置く異常なまでに権力を中央に集中した強権的な国家を作り上げていったのである。

(注1)柴田賓編、『石田梅岩全集(上)』、都都問答、七一ページ
(注2)小林勝人訳、『孟子』、岩波文庫、尽心章句上、三一八ページ
(注3)梅岩は、膜想、講釈、問答会を心学の教えの方法とした。心学のその後の歴史的発展の中で、これらの方法は、三つの基本的教化として引き継がれていった。
(注4)柴田賞編、『石田梅岩全集(上)』、都都問答、三六ページ
(注5)同、都鄙問答、八二ページ
(注6)同、都鄙問答、八二~八三ページ
(注7)同、都鄙問答、九0ページ
(注8)同、斉家論(上)、一九二ページ
(注9)同、斉家論(下)、二一七ページ
(注10)同、斉家論(下)、二一一~二三一ページ
(注11)竹中靖一著、『石門心学の経済思想』、二二八ページ
(注12)ロパート・ベ-フー著、『徳川時代の宗教』、岩波文庫、三二一~三二四ページ
(注13)同、三二八~三二九ベージ
(注14)永土木国紀著、『近江商人』、中公新書、四一~四二ページ
(注15)一枚起請文とは、浄土宗の宗祖法然が臨終の床にあって浄土往生の要義を簡潔に一枚の紙に記したもの。中井良祐はこれに習って長者になるための要諦を一枚の上にまとめたのであろう。
(注16)茎脅と始末の違い。梅山石の言う「私欲による倹約」と「正直に基づく倹約」の違いとも考えられよう。正直とは本来私心のないものであるから、消費者に役立つような倹約(コスト削減や工期の短縮)や仁愛(社会貢献)のための倹約は「ケチ」ではなく「始末」といえようか。
(注17)『石田梅岩全集』、上巻、五二六ページ
(注18)問、四八ページ
(注19)ロパー卜・ベラー著、『徳川時代の宗教』、岩波文庫、一一七ページ
(注20)司馬遼太郎著、『この国のかたち四』、文春文庫、三七~三八ページ
(注21)湯浅泰雄は、このような考え方の思想的基礎は、国学者の本居宣長によって与えられたとしている。「紀州公に呈した『秘本玉くしげ』の中で、彼(官一長)はこう言っている。『民は天照大神より預かり奉れる御民ぞということを忘れたまわずして…特に大切に思し百して、心得違いなきように、常々お心を付けらるべき御事なり。』ここには、封建的身分制度を超えた民族社会としての日本の一体性が見適されている。『民は天照大神より預り奉れる御民』という理念において、日本人は士農工商の身分差にかかわりない同じ『日本人』となる。その日本人意識のシンボルが古代神話を負う天皇であった」(『白本人の宗教意識』、講談社学術文庫、二九二ページ)。

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