(3)明治時代における陰徳――我が国近代の企業の社会貢献

私は、陰徳を「うちに愛の心をもって利他の行為を行うこと」と定義した。江戸時代、「積善陰徳」は町人の経済倫理の重要な徳目である倹約と表裏一体のもとして広く定着したのではないか、との考えを述べた。それでは、その「積善陰徳」は明治時代に入るとどのようになっていったのであろうか。餓私の仮説を述べれば、近代産業が興り成長していった明治時代が進むにつれて、社会貢献活動は、章社会問題への対応のあり方、運営、規模、継続性、そしてコストなどの点でおそらく江戸時代のそれ配
とは比較にならない重さ、問題の複雑性を持つようになっていったものと思われる。たとえば渋沢が例経営に携わった救貧対策事業は本腰を入れて推進するためには、公的な支援が必要なことはもちろん、継続的な多額の民間の寄付も不可欠であったし、その運営も経営的能力や手法が求められるようになっていった(注9)。
明治中期の頃になると、単に一個人の善意や篤志は救済すべき人に対して真にその効能を発揮できるものではないことを指摘する声が識者の間であがり始めていたのである(注10)。こうした世論が一つの大きな要因となって、明治コ二年(一八九八年)七月に施行された民法の三四条に公益法人の規定が盛り込まれ、社会事業を組織的、継続的に行うための法制度が一応整えられたのであった。
しかし、現実にはこの制度を利用して自ら社会事業を推進しようとする企業の数は低いレベルにとどまった。一九四四年までの―つまり敗戦前に作られた企業財団の数は二Oに満たなかったのである(注11)。よほどの使命感と情熱(森村市左衛門によって設立された「森村豊明会」や斎藤善右衛門による「斎藤報思会」なと)を持つ企業家か巨大な財力を持つ財閥会一井報恩会など)でない限り、財団の創設にまで踏み切るのは、容易ではなかったものと思われる。また、時代状況も影響を与えた。数少ない財団の大半は、その設立が大正期(一九一四1二四年まさに集中しており、昭和期に入ると尻すぼみに減っていった。「生活」や「文化」の向上に社会的関心が向かい始めた「大正デモクラシー」の時代が短命に終わると、「生活の質」に関わる社会事業は逆風にさ=りされることになったのである(注12)。
もちろん、企業家が社会貢献活動特に社会事業を行う場合、その手段として公益法人制度を活用するのは一つの方法でしかないから、設立された公益法人の数の少なさから企業人の社会貢献に対する取り組みに広がりがなかったと結論付けることはできない。近代日本の誕生とともに新興企業家として頭角を現し、光彩を放つ活躍により我が国の社会経済あるいは政治の世界に影響を及ぼした人たちは、本業のみならず社会貢献活動においても歴史に残る実績を残している場合が少なくないのである。その一例(九人)を「主な経済人と社会貢献活動」というタイトルで一覧表にまとめ、末尾に補足資料として添付したので参考にしていただきたい(注13)。
しかし、私は明治維新から敗戦までの近代日本における企業の社会貢献活動は、特に社会事業としての発展という面で、その萌芽を示しつつもついに開花するまでには至らなかったと考える。

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